ドラゴンはまだ眠らない

「大いなる声」にインスパイアされて書かれた預言書

俺が経済的な懸念から脱出した方法

障害食いっぱぐれることはなくなった。

まずは、収入の1割を投資に回せるようにする事が第一関門だった。

例えば、手取りが20万円ならば、2万年でいい。

月に18万円で生活する事ができれば、絶対に大丈夫だ。

だけど、そうはいかないのが人間というもの。

人間には虚栄心や承認欲というものがある。

パーキンソンの法則というのがあって、人間は、収入と同じ額のお金を使うと言われている。

俺も実際そうだった。

年収が500万円なら500万円の、1000万円なら1000万円の生活してしまう。

車も、時計も、靴も、ブランドにアップグレードしてしまう。銀座のおネエちゃんに貢ぐように成ってしまう。

くだらないところでマウントを取りたく成ってしまうのだ。

34歳で日本に帰国した帰国子女の俺は、帰国子女であるという事だけを武器に日本でのキャリアを開始した。

まずは手取り16万円、額面年収240万円弱からスタートした。小さいベンチャー企業の営業職だった。

その次に一部上場企業に買われた。戦国大名のような役員が、脱ドメスティックを進める中で、俺のような帰国子女(と言っても当時は英語がネイティブのように喋れるだけだったが)を探していた。面接で英語で自己紹介をしたら、その場で気に入ったと言って年収500万円で雇ってくれた。営業企画部で、中国法人設立後のケアと海外イベントの設営が主な仕事だった。

そこでは数年働いたが、今度は外資企業から700万円のオファーをもらい、そこに転職する事にした。退職届を持って行ったら、その戦国大名がカウンターオファーで800万円出すという。そこで俺は残る事にした。新しいポジションは、海外事業の課長代理だった。

しかし、大企業では先がない。年功序列のシステムに嫌気が指した。上司が、英語も話せない上に東南アジア(特に女性)を蔑む発言をしており、例の戦国大名に媚を売って出世しているタイプの人間だった。俺から見ても、明らかにビジネスの素養も低い。この上司に、「お前ちょっと英語ができるからって調子に乗るなよ」と言われた。これにも頭にきた。もう少しで殴るところだった。出世をするためには、戦国大名に気に入られる必要があり、そのためには、週末も上司と付き合いでゴルフに「お供させて頂いたり」、酒が飲めたり、タバコを吸ったり、おべっかができる必要があったのも嫌いだった。ここにいては俺はどこまで行っても「英語のできる奴」で終わってしまい、通訳や鞄持ちにしかやらせてもらえない。それが嫌で、俺は4年でこの会社を辞めてしまった。

次の会社はリクルータに誘われて入った外資系のICチップメーカー。帰国直前に、英検1級とPMPの資格を取っていたので、本社直属で日本の営業部隊をサポートするプロジェクトマネージャーになった。この時の年俸が、1000万円強。ここで、インターナショナルなプロジェクトの会議をファシリテートしたり、チームをまとめるリーダーシップと度胸と自信をつけた。自分の英語力はこのためにあるのだということを実感した。ただ、ここにも限界がきた。日本の外資系の大半人間は英語力も高くないし、自分をアピールするのに必死だ。当然他人を蹴落としたり、マウントを取ろうとして来る。俺はこのプロ意識と相反する利己主義的な人間関係に辟易し、また連日の時差による真夜中のウェブ会議で仕事とプライベートの区切りがなく、家族との時間を持てない事にストレスを感じ始めていた。そんな時、また新しくヘッドハントを受け、この会社も後にする事になる。この時38歳であった。

次は不妊治療のための医療機器を製造しているメーカーの海外営業のディレクターだった。ここは急成長の企業という事でバブルの時のように景気が良く、文字通り世界中を、北はアイスランドから南はアフリカまで出張する事ができた。出会いと別れを繰り返し、いろんな経験をする事ができたと思っている。事実上会社のナンバー2として、自分の営業チームを持ち、20人以上の部下をマネージしながら、自分のリーダーとしてのスタイルを学んだりもした。経営者の集まりである部長会なるものに参画し、経営に携わることもできた。

ところが、楽しい時期は続かないもので、ある時、俺に取って代わる新しいリーダーが現れた。社長の高校生の頃の幼馴染で、元外資の社長だった人が、副社長に就任したのである。この副社長は自分の配下となる人間、人事部長、CFOCSOだのという50代後半のおっさんを次々集め、俺のチームを解体し、権限と自由を奪っていった。社長は幼馴染に説得され、経営は完全にこの人に任せる方向に傾いていた。そして俺はアメリカに飛ばされ、違法の製品を打って自分の給与を稼ぐように命じられた。俺は一も二もなくその日の夜に辞表を書いた。41歳にして、出る杭として打たれ、失脚というものを味わうことになった。

2020年1月。俺は無職となった。今思えば、これでよかった。2月には、娘が生まれる事になっていたからだ。あのまま会社に残っていれば、アメリカに左遷され、コロナによって日本に帰って来れなくなっていただろう。そうなれば、一番大切な娘の出産と最初の時期に、家族と一緒にいられなかった事になる。

その後、再就職のための就活をした。捨てる神あれば拾う神ありとはよくいったもので、3ヶ月で新しい仕事場が見つかった。医療業界のコンサルティング職。またグローバルな営業や経営に関わるディレクター職で、年俸も、外資系の頃の2倍近くになっていた。おそらく、サラリーマンでこれ以上の収入を得るのは難しいだろう。それこそ外資のCEOとか、大手企業の役員級の仕事でなくてはならないが、そのためには社内政治力や運も必要だ。また、なれたとしても、自由が大幅に制限される事になる。俺は、サラリーマンとしてこれ以上の役職や給与を追求しようとは考えなくなった。

必要なのは、年収の一部を収入に回す事だ。租税のため、結局1000万円から倍の2000万円になったところで、手取りはそれほど変わらない。額面だけ考え、パーキンソンの法則に流されては、いずれ敗者となる。必要なのは、収入の一部を投資に回し、残りで生活費を賄う事である。

投資先をいろいろ考えたが、ビットコインが100万円の時に400万円ほど投資した。今では4倍ほどになっている。残りは、海外に銀行口座を作り、月々20万円程度の外国のファンドに積み立てている。残りは、デフォルトで20万円をNISAで海外のインデックスファンドに投資している。残りが生活費となる。

ファンドの積み立てはドル平均法といって、毎月同額を積み立てていくことが必要だ。下手な生兵法で短期の株などを買っても、所詮はゼロサムゲームだ。プロ投資家に吸い取られるだけ。資金規模も投資知識も桁外れのモンスター相手に勝てるわけが無い。だから、確実に勝てる方法で、かつ最大の利益率の方法を選ぶのがいい。その答えが、今のポートフォリオというわけだ。

基本は海外インデックスへのドル平均法の定額投資。これをつき5万円でも20代でやっておけばよかった。複利は本当にすごい。もともとお金には増える力が備わっているのである。

月5万円、年60万円が複利7%で増えたとしよう。それを20代から40代までやったら、その時点で2880万円以上。40年後に定年を迎える頃には1億2000万円を超える。そしてその後は、投資をストップさせていいから、溜まった投資から、毎年1000万円くらいずつを使っても、ほとんど手持ちのお金が減らない。600万円ずつ使っていけば、10年後には逆に増えている。

俺の場合は、34歳の時点で手取りは16万円で貯金はマイナス、投資など一切やっていなかったが、正しい知識を身につけ、収入を挙げられたおかげで比較的大きな投資額を確保できたため、1億円には数年でリーチする。すぐに、サラリーマンの収入を投資による収入が超える日が来るだろう。結果として、よほどのことがない限り、餓死することはないだろう。あとは、自分の人生、何を経験してたいか、という問題だけが課題として残った。

世界中をビジネスで回る夢は既に達成した。ここからは、より多くの出会いを繰り返し、人間として成長すること。そしてもう一つは、自分の事業を作り、教育に貢献することだ。

だから、まずは毎月インデックスに投資をし、残った額で生活できるようにする事。それが最初の人生の難関だ。それがクリアできれば、あとは勝算が残る。少なくとも今の資本主義が続く限り、このメソッドは汎用的に使えるだろう。